私は、異なるもの同士が触れ合い、互いに作用しながら変化していく、その過程に生じる美を起点に制作している。
制作では、ドローイングをプロジェクターによって投影し、その像を絵具によってキャンバスに定着させている。描かれた像は一度光へと変換され、再び物質として現れる。そこでは、もとの像がそのまま移されるのではなく、光や身体、絵具を介することで、ずれや変化が生じる。
私たちもまた、世界や他者を直接そのまま受け取っているわけではない。たとえば、他人の感情や経験そのものになることはできない。それでも私たちは、言葉や表情、身体、記憶などを介して、その人の存在を認識し、理解しようとする。完全には一致することができなくても、互いに触れることはできる。媒介とは、隔たりをなくすものではなく、隔たりを残したまま異なるもの同士を接触させるものでもある。
制作においても、私は自分の意図だけで画面を決定するのではなく、絵具の流れや滲み、重なりといった偶然性にその一部を委ねている。また、地と図を反転させることで、描くものと描かれるものの位置を入れ替える。ドローイングが光を介して絵画へ移されるように、自分が決めた像もまた、自分では制御しきれないものとの接触によって変化していく。
画面に繰り返し現れる葉や人のようなかたちも、こうした関心とつながっている。葉は植物の一部でありながら、そこから離れ、落ち、重なり、朽ちながら別の状態へと移っていく。人のような像もまた、明確な個人としてではなく、植物や動物、周囲の空間との境界が曖昧な存在として現れる。それらは固定された意味を表すものではなく、自己と他者、人と自然、個と環境といった区分のあいだにある存在として描いている。
何かを介することは、もとのものをそのまま伝えることではない。そこにはずれや偶然が生じ、何かが失われる一方で、それまでなかったものが現れる。私たちは、自分とは異なるものと完全に一致することはできない。それでも、さまざまなものを介しながら互いに触れることはできる。
私にとって絵画は、その隔たりをなくすためのものではない。異なるものが異なるまま触れ合い、その接触によって少しずつ変化していく。そうした変化のなかに現れるものを、私は絵画として捉えようとしている。